
王様
今回は小学生向け!戦国武将4択クイズを紹介するぞ!全問正解目指して頑張るのじゃ。
【小学生向け】戦国武将4択クイズ!勉強になるおもしろ四択問題【前半10問】


王様
まずは10問出題するぞぉ!選択肢の中から正しいものを一つ選ぶのじゃ。
第1問
織田信長が命を絶った事件とは、次のうちどれでしょうか?
1.満州事変
2.桜田門外の変
3.本能寺の変
4.東京事変
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3.本能寺の変
織田信長は、尾張国(現・愛知県)で生まれ、武将として勢力を拡大していった三英傑の一人です。
信長の重臣であった明智光秀に裏切られ、本能寺で火を放ち自害しました。これが「本能寺の変」とされています。
第2問
武田信玄は、甲斐国の戦国大名ですが、「甲斐」とは現在の都道府県でいうと、どこでしょうか?
1.鹿児島県
2.山梨県
3.秋田県
4.東京都
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2.山梨県
日本は中国を参考に、律令制を取り入れ、国を統治しました。
甲斐は律令国の一つで、飛鳥時代から明治時代まで機能していました。
甲斐国は山梨県、大和国は奈良県、相模国は神奈川県など、今の都道府県と近しい区分で分けられていました。
第3問
石田三成はどの戦国武将に仕えていたでしょうか?
1.豊臣秀吉
2.織田信長
3.武田信玄
4.直江兼続
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1.豊臣秀吉
石田三成は、近江国(現・滋賀県)で生まれました。
豊臣秀吉の家臣として仕えていましたが、秀吉が亡くなった後、徳川家康との戦(関ヶ原の戦い)で敗れ、その後処刑されました。
第4問
徳川家康は、江戸幕府を開きました。
では、江戸幕府は何年続いたでしょうか?
1.98年
2.265年
3.369年
4.608年
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2.265年
天下統一をかけて、徳川家康と豊臣秀吉は戦し、徳川家康は勝利を納めました。
そして江戸幕府を開き、初代徳川家康から15代徳川慶喜まで265年もの間、徳川家が日本を統治していました。日本の歴史上、平安時代に次ぐ長さです。
ちなみに、平安時代は390年も続いたそうです。
第5問
伊達政宗は体の一部に障害をもった武士です。
障害があったのは、次のうちどこでしょうか?
1.首
2.腕
3.足
4.目
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4.目
伊達政宗は、出羽国、陸奥国(元・東北地方)の戦国武将です。
子どもの頃に、天然痘と呼ばれる感染症にかかってしまったことにより、右目の視力を失ってしまいました。
この特徴から、「独眼竜」という異名を持っています。
第6問
豊臣秀吉には、動物に例えた愛称があります。
その動物は次のうちどれでしょうか?
1.ねこ
2.さる
3.うま
4.ひつじ
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2.さる
容姿から「さる」と呼ばれていた豊臣秀吉は、尾張国の貧しい家庭で育ちましたが、織田信長に仕えたことにより才能を発揮し、出世していきました。
信長が亡くなった後に後を継ぎ、天下統一を果たしました。三英傑の一人です。
第7問
直江兼続の兜には、ある漢字が書かれていたとされています。
それは、次のうちどれでしょうか?
1.勝
2.戦
3.愛
4.強
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3.愛
直江兼続は越後国(現・新潟県)で生まれ、上杉景勝の家臣として活躍しました。
兼続は、仏教を深く信仰しており、兜の「愛」の字は、仏教の明王の一つである「愛染明王」から取ったと言われています。
第8問
上杉謙信の幼少期の名前は、次のうちどれでしょうか?
1.犬千代
2.鶴千代
3.竹千代
4.虎千代
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4.虎千代
上杉謙信は越後国で生まれ、幼少期は虎千代、元服後は景虎と名乗っていました。
その後、上杉家の家督を譲られ、上杉謙信という名になりました。
謙信は70回以上の戦を経験していますが、1〜2回ほどしか負けなかったほど、戦いに強い武将で「越後の虎」と呼ばれ讃えられました。
第9問
真田幸村が活躍した代表的な戦(いくさ)は、次のうちどれでしょうか?
1.長篠の戦い
2.桶狭間の戦い
3.大阪の陣
4.姉川の戦い
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3.大阪の陣
真田幸村は信濃国(現・長野県)で生まれました。
関ヶ原の戦いで負け、流罪となりますが、大阪冬の陣、夏の陣で大活躍をしました。
しかし、夏の陣では力及ばず、戦死しました。
第10問
黒田官兵衛の出身はどこでしょうか?
1.播磨国
2.尾張国
3.筑前国
4.信濃国
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1.播磨国
黒田官兵衛は、播磨国(現・兵庫県)で生まれました。
メンタルが非常に強く、汚い土牢に幽閉されていた時も心折れずに耐えました。
またとても野心家で頭の回転が早く、織田信長や豊臣秀吉に仕え活躍しました。
【小学生向け】戦国武将4択クイズ!勉強になるおもしろ四択問題【後半10問】


王様
前半10問はどうじゃったかのう?まだ物足りないという人は次の10問も挑戦してみるのじゃ!
第11問
毛利元就には子どもが何人いたでしょうか?
1.男の子1人
2.女の子2人
3.男の子3人
4.女の子4人
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3.男の子3人
毛利元就は、安芸国(現・広島県)で生まれました。
非常に頭がよく、戦で不利でも戦略で相手を追い込み、勝利を納めていました。
そんな元就ですがとても家族思いで、息子3人には兄弟仲良くするよう教えていたようです。
第12問
浅井長政の妻・お市の方は誰の妹でしょうか?
1.豊臣秀吉
2.織田信長
3.徳川秀忠
4.武田信玄
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2.織田信長
浅井長政は、近江国(現・滋賀県)で生まれました。
織田信長の妹・お市の方と結婚しましたが、後に信長とは対立し、姉川の戦いで対戦し負けてしまいます。その後、居城を攻撃され自害しました。
長政とお市の間には3人の娘がいますが、豊臣秀吉・徳川秀忠の正室となります。
第13問
島津義弘が関ヶ原の戦いで敢行した作戦とは、次のうちどれでしょうか?
1.捨てがまり
2.奇襲攻撃
3.釣り野伏せ
4.苅田狼藉
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1.捨てがまり
島津義弘は、薩摩国(現・鹿児島県)で生まれました。
豊臣秀吉と対立していましたが勢力の差に戦意を失い、秀吉の下につきました。
秀吉が亡くなった後、関ヶ原の戦いへ参戦しましたが、相手に攻め入られ勝ち目がないと分かると義弘は「捨てがまり」作戦を敢行しました。
捨てがまり作戦は敵の正面から突破し時間稼ぎをし、大将を逃がす作戦で捨て身の作戦でした。
第14問
本多忠勝にはすごいエピソードがあります。
次のうちどれでしょうか?
1.一度も戦を経験しなかった
2.戦で一度も怪我をしなかった
3.味方が一人もいなかった
4.100歳まで生きた
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2.戦で一度も怪我をしなかった
本多忠勝は三河国(現・愛知県)で生まれました。
幼い頃から徳川家康に仕えていて、数々の戦で家康を守り戦ってきました。
その戦いぶりから、織田信長や豊臣秀吉からも賞賛されるほどでした。
そんな戦いぶりにもかかわらず、戦で怪我をしたことがなく、「怪我をしたら忠勝は終わる」と言われるほどでした。
第15問
長宗我部元親は当主になる前、どのような青年だったでしょうか?
1.頑固
2.やんちゃ
3.喧嘩っ早い
4.弱々しい
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4.弱々しい
長宗我部元親は、土佐国(現・高知県)で生まれました。
長宗我部氏21代当主を任され、その後、四国統一を果たすほどの人物ですが、当主を任されるまでは弱々しく戦国武将に相応しくないとまで言われるほどでした。
第16問
前田利家が得意とする武器は、次のうちどれでしょうか?
1.弓
2.鉄砲
3.槍
4.刀剣
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3.槍
前田利家は尾張国で生まれました。気性の荒く、派手な格好が好きな青年でした。
前田氏は織田信長に仕えており、戦では槍での戦いに強く「槍の又左」と呼ばれていました。
第17問
北条氏康が1554年に同盟を結んだ相手は、今川義元とあともう一人は誰でしょうか?
1.武田信玄
2.伊達政宗
3.直江兼続
4.真田幸村
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1.武田信玄
北条氏康は、相模国(現・神奈川県)で生まれました。
相模国の北条氏康・駿河国の今川義元・甲斐国の武田信玄が「甲相駿三国同盟」と呼ばれる同盟を組みました。
同盟の内容はいずれかの国で、何かが起これば必ず援軍を送るというものでした。
しかし、後に同盟は破棄され氏康と信玄は対立しました。
第18問
山本勘助が武田信玄に仕えたのは、勘助がいくつの時でしょうか?
1.約5歳
2.約30歳
3.約50歳
4.約70歳
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3.約50歳
山本勘助は、三河国または駿河国(現・静岡県)で生まれたといわれています。
しばしば架空の人物のように言われていましたが、近年実在したとされる資料が見つかりました。
勘助は背が低く、片目・手足が不自由だったことにより、なかなか仕官先が見つかりませんでした。しかし、勘助が50歳位の時に武田信玄に仕えることが叶いました。
勘助は情報収集能力に長けていたため、信玄にとって強い力となりました。
第19問
最上義光は武将としてだけでなく、文学にも詳しかったと言われています。
特に詳しかった文学は次のうちどれでしょうか?
1.古今和歌集
2.竹取物語
3.平家物語
4.源氏物語
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4.源氏物語
最上義光は出羽国で生まれました。
幼少期から体が大きく、一人では動かせない大石を義光は一人で動かしたという逸話を持っています。
そして関ヶ原の戦いでは活躍し、最上家の名をさらに上げました。
そんな義光ですが、とても文化人で、古典文学や巻物・陶器の収集などが趣味だったと言われています。特に、源氏物語は免状をもらうほどでした。
第20問
石田三成と豊臣秀吉の出会いはどんな出会いでしょうか?
1.三成と秀吉がたまたま同じ宿に泊まる
2.三成が間違えて秀吉に声をかけた
3.お寺で三成が秀吉にお茶を出す
4.三成が秀吉のファンだった
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3.お寺で三成が秀吉にお茶を出す
石田三成は近江国で生まれました。豊臣秀吉に仕え、事務方として外交などで力を発揮したと言われています。
そんな三成と秀吉の出会いは、三成が過ごしていたお寺に秀吉が立ち寄り、お茶を出した時でした。
三成は秀吉が求めていた通りのお茶を3回も提供したため、秀吉は相手の求めるものがわかり気遣いできる三成の姿に惚れ込み、仕えるよう申し入れたそうです。

王様
今回のクイズ問題は以上じゃ!君は何問解けたかな?
「クイズ王国」ではいろんなクイズを紹介しているから、他のクイズにも挑戦してみるのじゃ!